葬儀 相続 遺産分割

父との死別 NO5

2018年6月27日、父との事実上最後の別れの挨拶をした私は翌27日の昼東京へ戻った。
父は自分が車を運転して、もう作ってあるこのあと自分が入る墓へ私と母を乗せって行ってくれた。
そこで草むしりをして休憩所で3人で最後の話をした。父はこの頃声はかすれていたが、ある程度普通の歩けたし、車も運転で来た。

返りに駅まで私を車で送ってくれた。最後に車窓からこちらに手を振る母が、「安心して、お父さんはあの世の入り口まで私が見送るから心配しないで東京でしっかり働いて・・・」そう言っているように見えた。

車が走り去った後、私は涙が溢れ、しばらくその場に立ちすくんだ!

靴販売をしている私にとって、年末年始は忙しい・・・セールがずっと続くからだ。

年末も残すところあと一週間あとに迫った時期に、母から電話があった。
父の病状がいよいよ悪くなった。先生は、年末年始は大丈夫そうだが、年明け少ししたら危ないだろうと・・・・

父は6月の別れるとき私に行ってくれた。危篤になる前にもう一回呼ぶから・・・・
結局この時期意識がもうろうとしてきた父にその余力は残されていなかったようだ。

年が明けて、2019年1月5日、ついにその時が来てしまった。東京で仕事が終わり住んでいる最寄り駅で電車を降りて改札へ向かう直前で突然母から電話が掛かってきた。

「急いで帰って来て」その声は冷静だった。
「ごめんね、辛いことはお母さんにみんな任せて、お父さん危篤になっちゃったの?」
「違う、もうダメ・・・・・死んじゃった。」

母はあまり直接表現を使う人ではなかったが、この時は歪曲表現では伝わらないと判断したのかダイレクトで言われたのを覚えている。20:50ちょっと前だった。

私はすぐに上司に電話して数日の休みを取ると、ATMに行きお金を降ろして、駅から5分のマンションに帰りカバンの荷物を全部出して携帯の電源だけを持って駅に走った、品川乗車の最終「のぞみ」の乗車券が買えた。

新幹線の中、仕事の疲れもあって眠って行こうと思ったが、なぜか父との思い出や小さな口論した内容がいろいろ思い出されて眠れなかった。あの時あんな言い方をしないでもうちょっと思いやりを持った言い方ができたのではないか・・・・涙が止まらなかった。
以前に祖母が亡くなった時の顔を見たことがあるが、父の亡くなった顔はどんな顔をしているのか?そればかりが考えられた。

最寄り駅の着いたのは深夜の24:00を回っていたタクシー乗り場に行列ができていた。
待ってタクシーに乗って実家に着いたのは24:20過ぎだった。

「ただいま・・・」奥から母が出てきた。泣いていなかったし、いつも通り冷静だった。
いつも私が実家に帰った時に迎えてくれる母の表情と何一つ変わらなかった。

「誰かまだいる?」

「訪問医、介護士、おじさん夫婦もさっきみんな帰ったから、もう誰もいないよ、お父さんきれいな顔して寝てるから、見てあげて」

当たり前なのだが、父の死に顔をリビングに行って人生ではじめて見た。こいつ当たり前のこと言ってるなと思われるかもしれないが、いろいろ想像していたが初めて見た。
なぜか涙が出なかった。触ることもできなかった。入れ歯もほとんどしていなかったようで、ほほがこけた様子も想像していたよりは無かった。

ただ、父は横を向いて、口を少し半開きにして、体をかがめて無くなっていた。生存時から1割ぐらい体が縮んでいる印象で、ぽかんと開いた口から鋭気が出て行ったように見えた。
でもまだ寝ているように見えて、声を掛けたら起きてくる気がした。

「朝から今日はずっと寝てて、9時前に様子がおかしいなと思ったから、何度か本当に死んでいるか様子を確認して、息を吹き返さないことも確認したから、それであなたに一番に電話した。そのあと訪問医の先生とヘルパーさん、あと今回ずっと医者の連れて行ってもらったりお世話になっていたおじさん夫婦に電話した。途中、両手をぎゅっと握って、しゃっくりのような行為を日中何度か繰り返していたよ・・・」

癌が体中をむしばんで体中のそこらじゅうの機能が停止していき、最後に頑張って生きようとする心臓を止めたのだろう。

余命3カ月の末期癌宣告を受けてから、神様は父に調度プラス100日のアディショナルタイムというご褒美をくれました。これも生前父が一生懸命働いて、私と母を養ってくれたからだと思います。

「おとうさん、私と母を長い間養ってくれて本当にありがとう。そして84年間本当にお疲れ様でした。